#008

現代の創造性を刺激するヒントは、ルネサンス期の空間史に

桑木野 幸司

大阪大学大学院人文学研究科 教授(栄誉教授)

桑木野 幸司

憧れの研究者に学ぶためイタリアへ

人文学研究科で研究をしていますが、出身は工学部建築科です。理系への進学を望んでいた親の意向と、あまり数式と格闘したくないという自分の気持ち、もともと美しい建物や美術が好きだったこと、それらすべてを満たせる進路として選んだ学科でした。当初は建物デザインへの憧れがあり、建築家になれたらいいなと漠然と考えていました。ところが、「建築の歴史」の授業の面白さに心を奪われ、さらに、卒業論文の時期に建築史の研究室に配属されたのが嬉しくて、デザインを放り出し歴史の道へ。理系に進んだはずなのに歴史を専門にしてしまって、親からしたらちょっと変な息子だと思ったかもしれません。

大学院は、西洋建築史専門の先生のもとで学ぶため、別の大学に進学し、博士課程後期の時にイタリアに留学しました。「せっかく留学するなら、どうしても憧れの研究者のもとで勉強したい」という強い思いがあり、ルネサンス庭園に関する論文を多数発表されていたピサ大学のルチーア・トンジョルジ・トマーズィ教授に手紙を書き、受け入れをお願いしました。2年間の予定でしたが、結果的に8年間の滞在となり、ピサ大学で博士号を取得。イタリアでは日本とは全く異なる文化のなかで揉まれ、金銭的な不安もありましたが、朝から晩まで研究に没頭できる日々は充実した楽しいものでした。自分の研究分野の最先端で活躍する研究者が、現在進行形で知識を生み出す現場に立ち会えたり、高名な研究者がかつて取り組んだ古い文献や資料を自分の手で扱い、その方とは異なる視点で分析をし、新しい知識を生み出す過程にドキドキしたり。最高の体験でした。また、指導教官は毎回びっしりと手書きのコメントを入れ真っ赤にして論文を返してくださる先生で、そのおかげでずいぶん鍛えられました。ミミズが這ったような癖のある文字でしたので、まずはイタリア人の友人に読んでもらい、それをブロック体に直してってところから始まるんですけど・・・。

資料を読み解き、知を現代へとつなぐ

建築物に込められた意味や、空間が人々に与える経験や記憶に焦点を当て、「空間史」という枠組みで研究をするようになったのは、建築史に関する論文を読む中で、様式や構造といった要素にとどまらず、空間全体を考える視点が次第に培われていったからです。ルネサンス期のイタリアの建築物を主な対象にしていますが、文学作品や行政文書の中に登場する、文字で表現された建物や空間にも注目しています。資料は古いイタリア語で書かれたものが多く、言葉の壁に苦労することもありますが、最近は翻訳支援ツールが進化し、ずいぶん便利になりました。このようなツールも活用しながら、より自由に資料の中を泳ぎ回り、ルネサンス文化をもっとビビッドに描き出してみたいです。

また、研究で得た知見が、現代にも活かされて欲しいと願っています。空間は単なる場所ではなく、記憶や感情と結びついて人の心を動かす存在だからです。実際「空間史」の視点は、ビジネスや情報マネジメント、広告など、多様な分野の方々にそれぞれの切り口で受け止められています。「このレトリックは人の心に残る」「空間を工夫すると消費者に伝わりやすい」といったかたちで自分の研究成果が応用されていると知り、研究が社会の中で役に立ってることを実感しました。これからも、研究者だけでなく、より広い人々の思考のヒントとなる新たな視点を提供できればと思います。

目の保養と空気清浄を兼ねたネムノキは、夕方になると葉っぱを閉じて眠りだす。「夕方、僕が研究していると勝手に眠り始めて、寂しいんですよ。」

研究は楽しむことを忘れずに、夢中になれるテーマと向き合おう

「桑木野さんはどうしてそんなに楽しそうに研究しているんですか。」と驚かれることがあります。お話を伺うと、研究成果を出していくプロセスがつらいとおっしゃるのです。もちろん性格の違いもあるかもしれませんが、僕自身は「研究は楽しんでやればいいんじゃないかな」と考えています。若手研究者や研究職に興味がある学生さんに伝えたいことは、もしもテーマにストレスを感じるようであれば、思い切って見直すことも大切だということです。何より「自分が夢中になれるテーマかどうか」をいつも意識していてほしいです。特に歴史研究では、優れた資料との出会いが鍵となります。自分だけが独創的に分析できるような、そんな資料に出会えるかどうかは、半分は運。でも残りの半分は、自分の努力次第です。幅広く研究書を読み、先行研究を網羅的に押さえていくことで、ひらめきを得ることがあります。そうして出会えた「一生を捧げてもいい」と思える対象があれば、とことん追求してください。

そして、「心と体の健康が何よりも大切」ということもお伝えしたいです。研究が行き詰ったときは、ふらっと自然の中に出かけてみるのが一番です。庭や公園など、緑のある場所を歩くだけで、気持ちがほぐれ、アイディアも自然と湧いてきます。その点、この豊中キャンパスはとても恵まれています。待兼山も近くにあり、緑豊かな環境です。精神のリラックスは、研究を続けていくうえで大事なことだと思います。

コラム

Column

大阪大学でお気に入りの場所は?

豊中キャンパスのカフェテリアらふぉれ前の坂道は季節の移ろいを楽しめるので、いつも通るようにしています。僕の個人的な願いですが、美しく多様性に富んだ庭がキャンパス内にできたら、ノーベル賞級の価値になると思います。そういう庭で、授業や研究発表をするのも面白いでしょうし、そんな贅沢な空間を、大学でぜひ作ってほしい。建物で気に入っているのは、サイバーメディアセンター・データステーションの古い建物です。戦後のモダニズム建築で、装飾が多く、タイルや鉄のデザインが独特です。壊さず残してほしいですね。大阪大学会館や、大阪大学総合学術博物館・待兼山修学館も、古い建物なので好きです。

最近読んで面白かった本は?

『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』かまど・みくのしん著。本を読んだことがないみくのしんが、『走れメロス』を声に出して一行ずつ読み、その都度思ったこと語りながら、ツッコミ役のかまどとディスカッションして読書を進めていく内容です。この読み方が、実は僕が研究している時代と深く関係していて驚きました。ルネサンス時代の読書も、音読しながら議論を交えて進めるスタイルでした。著者が無意識のうちにそれを実践していたのが、とても興味深かったですね。さらに、みくのしんが感極まって泣く場面もあり、本が情緒を揺さぶる力を持つことを改めて実感しました。まるで昔の読書体験をリアルに見せてもらったようで、とても衝撃的でした。

プロフィール

Profile

桑木野 幸司 KUWAKINO Koji

大阪大学大学院人文学研究科 教授(栄誉教授)

文学博士(美術史)。ピサ大学大学院修了。2011年大阪大学文学研究科准教授に就任。同教授を経て、2022年から同大学院人文学研究科教授。2020年大阪大学栄誉教授の称号付与。現在に至る。

掲載日:2025年5月12日/取材日:2025年2月18日 内容や経歴は取材当時のものです。

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